家に届いたスーパーコンピューターの資料に夫は一通り目を通してはいましたが、とくにこの機種に決めたみたいな反応もなく、熱狂の嵐は通り過ぎたのかと思っていたら、病院に出入りしている生命保険の外交員さんが家に来ました。
満面の笑顔で「ありがとうございます」と言われて、何が起こったのかと尋ねたら、3億円の保険契約をしたとのことでした。
ま、まあ、夫が死ねば私に3億円が入ってくるのかと一瞬思いましたが、それはそれで毎月の賭け金が大変なことになるので、夕方帰宅した夫に理由を聞くと一冊の本を渡されました。
中公新書みたいなシンプルな外装の表紙には「ノーベル賞」と書いてありました。

夫は「おれはこれからノーベル賞を取るんだから、おまえもそのつもりでいるように」とおもむろに言いました。
さすがに話が飛躍し過ぎで、もう少し現実的なことを聞いてみようと思い、「それで、どんな研究でノーベル賞を取るの?」と聞いたら、「風邪を治す方法を発表する」と大真面目に言って、なぜかプリプリした様子で別室に行ってしまいました。
もう夫は私の手には負えないと思い、この頃の私は猛烈に自分を責めていました。
私の些細な言動が夫のメンタル変調の原因になっているのではないかと怯えて自分を責めました。
家族や身近な人が精神病と言う状況は生まれて初めてのことで、親に相談したいと思っても、病気の知識がない親が必要以上に夫を警戒しないか心配だったし、この時代は身近に精神病の人がいたり当事者からの発信はなかったので、友人知人に話すこともできず、私は自分の狭い殻にこもって延々と悩んでいました。
そんなくよくよしている時に医療裁判関係の保険の資料が家に届きました。
このまま夫を野放しにしていたら医療訴訟を起こされる可能性がないとも言えず、私の不安はますます募りました。
その数日後、いつもより早く帰宅した夫が「患者さんを殴った」と言いました。
どうもご近所の高齢患者さんを診察室で殴ったようで、院長先生が止めに入り、その場を収めてくれたようです。
患者さんに怪我はなかったのが幸いで、それ以上の大きな問題にはなりませんでしたが、夫はしばらく休みを取ることになり、この機会にあまり暴れたりする前に精神科に入院をしてもらいました。
躁状態になっていても閉鎖病棟で数日おとなしくしていたら、また落ち着くとはわかっていたんですが、私にはこれ以上夫との未来が見られず、脱力して実家に帰りました。
もうこの結婚生活を続ける気持ちは消えていました。

