彫金アトリエ

仕事

高校を卒業してから数ヶ月間、チェーン店のカメラ屋で働いていました。
少し写真に興味があったので、カメラが安く買えるかな、程度の下心がありました。
中古の一眼レフカメラを社販でお安く買えたのでわりと満足だったんですが、まもなく仕事はクビになりました。



理由は遅刻が多いからとのことでした。
バス通勤だったので雪が降ると時間が読めず、遅刻するのは当たり前と思っていた私が間違っていたのかも知れません。
会社の方針で女の子にはカメラの販売をさせず、フィルムを預かって現像書に引き渡すだけの仕事だったから、そこまで思い入れもなく、クビになっても痛くも痒くもなくて、失業保険がもらえるのがうれしくて職安に通いました。

職安では仕事を探すパフォーマンスをしなくてはいけないので、気に入った求人票を職員さんに見せました。無職の人が就職すれば、失業保険の支払いをそれだけ抑えられるわけだから職員さんはその場で先方に電話をかけて、面接の段取りをつけてしまったので、渋々面接に行ったのが彫金のアトリエでした。

彫金と言われても意味がよく分からず、その場で採用となり、失業保険に心を残しながらも翌日から出勤となりました。
服装は別になんでもいいと言われ、特に制服が決まっているわけでもなかったのが良かったです。
この頃の私は古着屋さんに良く出入りして服を買っていました。
人並みにファッションに興味があって、ハウスマヌカンがあこがれの仕事だったから、そんな仕事をやってみたかったし、この時代はハンドメイド品のイメージが地に堕ちていたから、いくらアクセサリー製造とは言え、購買層は1970年代にハンドメイド品を好んだご年配の方が多くて、10代の私がおもしろがるような仕事ではなかったです。

彫金 仕事

アトリエの社長夫婦はどちらも東京藝大彫刻科卒業で、社長の方は一浪だったけど奥さんはストレートで合格したらしいと言われていました。
学生時代に社長は同級生に路上のアクセサリー販売をさせて、鵜飼の師匠のように上前をハネてそれなりの資金を貯めて、大学卒業後、アトリエを開いたそうです。
見たことがある方もいらっしゃるかもですが、路上に黒いビロードを敷いて、アクセサリーを並べて売り、真鍮線で名前のブローチを作ってくれる人たちが1970年代にたくさんいました。

手作りアクセサリーは今も昔も参入が多い業界ですが、上前をハネると言う発想には驚きました。
彫金アトリエで働いていた頃の私は理解していなかったけれど、クリエイティビティとマネタタイズをうまく折り合わせた社長はなかなかの人物でした。
彫刻と言う表現は紙に絵を描いて終わりではなく、素材を準備して組み立てていく造形の実技が必要です。
これが平たく言うとめっちゃお金がかかります。
造形の規模が大きくなればなるほど予算は膨らむし、組み立てる手順も考えなくてはなりません。

この具現化能力に長けていたのが社長でした。
彫金アトリエで私が最初にやった作業は厚さ0.6ミリ、1.5センチ角に切られた銅板を対角で丸く切ってバラの葉っぱを作る作業でした。
言うのは簡単ですが、金切りハサミの刃の向きによっては切り口にギザギザの跡がついたり、一気に切らないと切り跡が乱れるような作業でした。
銅板の切りクズも尖っているから刺さると痛いし、力も必要なので、そんなにうまいことは行きませんでした。
次の日は銅線を切って、その端をガスバーナーで熱して玉にする、その翌日は銅ロウで葉っぱと線をくっつける、みたいな感じでした。
合間合間に社長が作ったヤスリやバフ(金属磨き機)の使い方を教わったりしました。

何日めかにクロッキーブックを一冊渡されて、作ってみたいものがあったら描いてみなさいと言われました。
クロッキーブックが出てきたところでデザイナーデビュー?とややテンションがあがったんですが、これは自分の持っている技術の範囲内でと言う制約つきなので、葉っぱを切って線に貼り付けできるようになったくらいではデザインなんてまだまだ無理でした。

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